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『論語』
紀元前450年頃成ったといれる書。
孔子と弟子たちの多岐にわたることばや行動が、およそ五百の短い文章によって構成されている。
インターネットで『論語』を読む
オンラインで読める電子テキスト版の『論語』が数点あります。その内、ホームページ【日本脱藩すすめ】と相互リンクで結ばれているHPは次の通りです。
【雨粟莊】
【しまんと便り】
【雨粟莊】には、『論語』以外にも『易経』、『書経』、『詩経』などの電子テキストがあり、また、【しまんと便り】には、『論語』とともに『老子』があります。
『論語』の誤訳
当り前の話ですが、『論語』の原典は中国語で書かれています。従って、理想を言えば『論語』は直接原書にあたるのが理想なのですが、日本人で中国語の原書をスラスラ読める人は稀であり、どうしても翻訳されたものに頼らざるを得ません。
『間違いだらけの漢文』の著者、張明澄さんや『中国語で学ぶ漢詩』の著者、田中秀さんらは、原書を直に味わうよう主張しています。言わんとすることは良く分るのですが、なかなかそこまではというのが実情です。
そこで、中国古典が和訳されたものを読む場合、誤訳がないかどうか目を凝らしながら読む必要があるのではないでしょうか。そう思うに至った理由として、ある“誤訳”の例を取りあげてみましょう。
『論語』里仁篇・十六章に、「子曰、君子喩於義、小人喩於利。」(子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。)とあります。
『孔子 孟子』(貝塚茂樹編)の通釈 (p.116)では、次のように書かれていました。
「先生がいわれた。
“りっぱな人間は義務にめざめる。つまらぬ人間は利益に目がくらむ”」
今までは、上記の通釈通りに受け取り、論語を読んできただけに、次の小室直樹さんの『共産主義中国の挑戦』(光文社)を読み、目から鱗が落ちる思いでした。少々長くなりますが、引用してみましょう。(p.199)
「ところで宗教の目的は、“救済” (salvation)にある。したがって、“救済”を考えることで、各宗教の比較ができる。
仏教の“救済”は「悟りを開くこと」である。悟りを開いた人間は、輪廻の法則の外へ飛び出すことができるわけだ。ユダヤ教の“救済”は「神との契約を守ること」にある。そうすれば神は、奇跡をおこしてでも人を救済してくれる。この契約は外面的行動に対するものである。しかし、キリスト教の“救済”は「内面における神との契約を守ること」だ。すなわち「神を信じること」である。
では、儒教での“救済”とはどのようなものなのか。それは「よい政治をすること」に尽きる。よい政治さえすれば、すべてはうまくいくというのだから、きわめて楽観的だ。妖怪も退散するし、天変地異もコントロールできるほか、社会的矛盾もなくなるという考え方である。聖人が為政者になり、聖人の近くにいて、聖人を助けるための統治階級たる君子が礼楽にのっとった行動をすれば、よい政治が行なえるという論理である。
それゆえ、儒学の教義内容は、いかにすればよい政治ができるか、この目的のために集中される。中国の歴史書は、よい政治をめざしての範例集だといってよい。修養や人格の陶冶だって、みんなこの目的のためにあるのだ。
だが、日本人には、どうもここのところが、ピンとこない。中国人とはちがって日本人は、元来、非政治的な人間だからだろう。
これが、日本人の儒学誤読の根本的原因である。その考え方の根本において誤解しているものだから、日本人は、儒教における重要な言葉も誤読してしまう。たとえば、“聖人”“君子”“小人”という言葉だ。
日本では聖人といえば、知恵が広大で行ないが正しい人、心の優しい人になる。君子は徳のある人、小人は凡人という意味だ。
しかし、中国では聖人というのは為政者(政治権力者)のことであり、君子は統治階級に属する人、小人は一般庶民という意味になる。
儒学者の説を聞いて最初に驚くのは、孔子が魯の国の大臣になって真っ先にやったのが大粛清だった、というくだりである。無能な政治家をすべて殺したし、諸候の会合で無礼な行ないをしたこびとや役人をも殺した。日本人の感覚からすれば、聖人が人を殺すとはなんと無慈悲で、そんな聖人なんかあるものかと思うだろう。政治上の問題で人を殺すのはスターリンだけではないのか、と思う人もいるのではないだろうか。
論語の“誤読”で一つの例は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」という言葉だ。これを正しく解釈すると「統治階級の人は義に喩り、庶民は利に喩る」という事実を述べているにすぎない。
ところが日本人は「義に喩るのが君子で、利に喩るのは小人である。」と逆に読んでしまう。さらに、「君子は義に喩るべきであり、小人は利に喩るべきである」などとも読みたがる。いっそう徹底すると「あなたは義に喩って君子になりなさい。利に喩って小人になってはいけません」という教訓にしてしまう。
儒教の組織論はすっかり抜けてしまって、儒教が人間当為の教えであるという側面だけが、やたらと強調される。
これほどの大きな“誤読”をする原因は、どこにあるのか。それは、中国と日本とでは社会構造がちがい、しかも儒教は、中国の社会構造に深く根ざした宗教であるからである。」
小室さんが言わんとすることは、儒教の根本思想とは、『良い政治を行なう』ということに尽きます。今後は、そうした観点で『論語』を読み直していくのも大切なことなのかもしれません。
いずれにせよ、単に辞書を使って、言葉の意味の正誤を確認するだけではなく、もっと広く中国思想に精通していく必要があります。その上で、我彼の思想・発想の相違に注意しつつ、四書を読みすすめていくことで、新たな発見があるのではないでしょうか。これは四書に限らず、他の中国古典にも言えることだと思います。
同時に、そうした読み方は、読者のインテリジェンスを磨く修行にも繋がり、一石二鳥だと言えそうです。
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