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               日本脱藩のすすめ  第32号
                
                    中国古典(論語)

                                                       1999/04/26
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 今回の中国古典シリーズは、『論語』です。

 『孔子 孟子』(中央公論社)の責任編集者である貝塚茂樹さん(故人)が
、冒頭で次のような想い出を綴っています。

 「私が『論語』という書物をはじめて習いだしたのは満六歳、小学校にあが
る一年前の四月のことであった。父のいいつけで、毎晩夕食後、離れに住んで
いた祖父のもとに通うことになった。
 白い顎ひげをはやした祖父の前におそるおそるすわって、本をひろげると、
祖父は机の向こうから字つきの棒でひとつひとつ字をおさえながら、『論語』
の本文を独特の節をつけて読んでくれる。
 “論語巻の一 朱熹集註。 子のたまわく、学んで時これを習わず、また説
ばしからずや”
 というぐあいで、三、四度祖父について、声をはりあげて繰り返して読むと
、最後は自分で指で字をついて読まされ、それがすむと授業は終わる。翌晩は
前日に読んだところを自分で二、三度読み、無事にまちがえずに読みあげると
、次の段に進むというやり方であった。」
 
 このような読み方を素読といい、昔は、始めから終わりまで暗唱するように
音読させるだけで、意味を口語で講釈することはほとんどしないというやり方
だったようです。
 子供に漢字ばかりならんだ論語やその他の四書の素読をやらせるということ
は、現代からみて無謀かつ無駄な教育法に見えるかもしれません。
 ただ、ここで言えることは、このように子供のときに丸暗記した四書が、そ
のときは意味が分らなくても、成長するにつれて少しづつ分かってくるように
なり、その人の人格を形成する上で相当な影響を与えているであろうと想像で
きます。
 そして、そのようにして四書を身につけた子供たちの中から、森鴎外、夏目
漱石といった文豪が出ましたし、また、貝塚さん同様、中間子理論を発見した
湯川秀樹博士も素読法という教育を受けた一人でした。また、同時通訳の泰斗
、國弘正雄さんも子供のころ、祖父あるいは父に四書の素読をやらされたとい
う話を聞いたことがあります。
 こうした事実を考えるに、現代という時代においても、素読法には見直すべ
き何かがありそうな気がします。
 
 
 さて、本題に入ります。論語は、孔子の弟子たちによって集められた孔子の
ことばや対話を編集したものであるだけに、金言で満ちています。有名な金言
を幾つか列挙することで、論語の一部を味わってみましょう。

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦
君子乎。[学而篇・一章]
(子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや、朋あり遠方より来たる
、また楽しからずや、人知らずして慍みず、また君子ならずや。)

子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順
、七十而従心所欲不踰矩。[為政篇・四章]
(子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五
十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従いて矩
を踰えず。)

 いずれも馴染みのある金言だと思います。それ以外にも、論語には数多くの
金言があります。そこで、読者の皆さんのインターネット環境を活かし、下記
の『論語』の電子テキストを時間があるときに覗いてみるといいかもしれませ
ん。

http://village.infoweb.ne.jp/~fxba0016/ 【雨粟莊】
http://www.urban.ne.jp/home/pd9tktym/murase/rongo.html 【論語の部屋】
http://hp.vector.co.jp/authors/VA013051/lunyu.html 
【論語ハイパーテキスト】
http://www.netwave.or.jp/~m-kenji/page/rousi/rousi000.htm
【しまんと便り】

(【雨粟莊】には、『論語』以外にも『易経』、『書経』、『詩経』などの電
子テキストがあり、また、【しまんと便り】には、『論語』とともに『老子』
があります。【雨粟莊】と【しまんと便り】とは、ホームページ【日本脱藩の
すすめ】と相互リンクで結ばれています。)


 ところで、当り前な話ですが、『論語』の原典は中国語で書かれています。
従って、理想を言えば『論語』は直接原書にあたるのが理想なのですが、日本
人で中国語の原書をスラスラ読める人は稀であり、どうしても翻訳されたもの
に頼らざるを得ません。
 前々号で紹介した『間違いだらけの漢文』の著者、張明澄さんや『中国語で
学ぶ漢詩』の著者、田中秀さんらは、原書を直に味わうよう主張しています。
言わんとすることは良く分るのですが、なかなかそこまではというのが実情で
す。
 そこで、中国古典が和訳されたものを読む場合、誤訳がないかどうか目を凝
らしながら読む必要があるのではないでしょうか。そう思うに至った理由とし
て、ある“誤訳”の例を取りあげてみましょう。
 『論語』里仁篇・十六章に、「子曰、君子喩於義、小人喩於利。」(子曰く
、君子は義に喩り、小人は利に喩る。)とあります。
 『孔子 孟子』(貝塚茂樹編)の通釈 (p.116)では、次のように書かれて
いました。

 「先生がいわれた。
 “りっぱな人間は義務にめざめる。つまらぬ人間は利益に目がくらむ”」

 今までは、上記の通釈通りに受け取り、論語を読んできただけに、次の小室
直樹さんの『共産主義中国の挑戦』(光文社)を読み、目から鱗が落ちる思い
でした。少々長くなりますが、引用してみましょう。(p.199) 

 「ところで宗教の目的は、“救済” (salvation)にある。したがって、“
救済”を考えることで、各宗教の比較ができる。
 仏教の“救済”は「悟りを開くこと」である。悟りを開いた人間は、輪廻の
法則の外へ飛び出すことができるわけだ。ユダヤ教の“救済”は「神との契約
を守ること」にある。そうすれば神は、奇跡をおこしてでも人を救済してくれ
る。この契約は外面的行動に対するものである。しかし、キリスト教の“救済
”は「内面における神との契約を守ること」だ。
 すなわち「神を信じること」である。
 では、儒教での“救済”とはどのようなものなのか。それは「よい政治をす
ること」に尽きる。よい政治さえすれば、すべてはうまくいくというのだから
、きわめて楽観的だ。妖怪も退散するし、天変地異もコントロールできるほか
、社会的矛盾もなくなるという考え方である。聖人が為政者になり、聖人の近
くにいて、聖人を助けるための統治階級たる君子が礼楽にのっとった行動をす
れば、よい政治が行なえるという論理である。
 それゆえ、儒学の教義内容は、いかにすればよい政治ができるか、この目的
のために集中される。中国の歴史書は、よい政治をめざしての範例集だといっ
てよい。修養や人格の陶冶だって、みんなこの目的のためにあるのだ。
 だが、日本人には、どうもここのところが、ピンとこない。中国人とはちが
って日本人は、元来、非政治的な人間だからだろう。方の根本において誤解し
ているものだから、日本人は、儒教における重要な言葉も誤読してしまう。た
とえば、“聖人”“君子”“小人”という言葉だ。
 日本では聖人といえば、知恵が広大で行ないが正しい人、心の優しい人にな
る。君子は徳のある人、小人は凡人という意味だ。
 しかし、中国では聖人というのは為政者(政治権力者)のことであり、君子
は統治階級に属する人、小人は一般庶民という意味になる。
 儒学者の説を聞いて最初に驚くのは、孔子が魯の国の大臣になって真っ先に
やったのが大粛清だった、というくだりである。無能な政治家をすべて殺した
し、諸候の会合で無礼な行ないをしたこびとや役人をも殺した。日本人の感覚
からすれば、聖人が人を殺すとはなんと無慈悲で、そんな聖人なんかあるもの
かと思うだろう。政治上の問題で人を殺すのはスターリンだけではないのか、
と思う人もいるのではないだろうか。
 論語の“誤読”で一つの例は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」という言
葉だ。これを正しく解釈すると「統治階級の人は義に喩り、庶民は利に喩る」
という事実を述べているにすぎない。
 ところが日本人は「義に喩るのが君子で、利に喩るのは小人である。」と逆
に読んでしまう。さらに、「君子は義に喩るべきであり、小人は利に喩るべき
である」などとも読みたがる。いっそう徹底すると「あなたは義に喩って君子
になりなさい。利に喩って小人になってはいけません」という教訓にしてしま
う。
 儒教の組織論はすっかり抜けてしまって、儒教が人間当為の教えであるとい
う側面だけが、やたらと強調される。
 これほどの大きな“誤読”をする原因は、どこにあるのか。それは、中国と
日本とでは社会構造がちがい、しかも儒教は、中国の社会構造に深く根ざした
宗教であるからである。」

 
 小室さんが言わんとすることは、儒教の根本思想とは、『良い政治を行なう
』ということに尽きます。今後は、そうした観点で『論語』を読み直していく
のも大切なことなのかもしれません。
 いずれにせよ、単に辞書を使って、言葉の意味の正誤を確認するだけではな
く、もっと広く中国思想に精通していく必要があります。その上で、我彼の思
想・発想の相違に注意しつつ、四書を読みすすめていくことで、新たな発見が
あるのではないでしょうか。これは四書に限らず、他の中国古典にも言えるこ
とだと思います。
 同時に、そうした読み方は、読者のインテリジェンスを磨く修行にも繋がり
、一石二鳥だと言えそうです。


 ■参考文献

 ・『孔子 孟子』(貝塚茂樹編 中央公論社)
 ・『共産主義中国の挑戦』(小室直樹著 光文社)
 ・『中国思想』(宇野哲人著 講談社)
 ・『中国人の知恵』(諸橋轍次著 講談社)
 ・『中国古代の文化』(白川静著 講談社)
 ・『中国人と日本人』(陳舜臣著 祥伝社)
 ・『中国語で学ぶ漢詩』(田中秀著 白馬出版)



==========================訓言==========================

苟に日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり 
[まことにひにあらたに、ひびにあらたに、またひにあらたなり]
苟日新、日日新、又日新 『大学』
解説  自己啓発のすすめを意味する。 

大昔、殷の湯王は、この言葉を洗面の器に刻みこんで、日々、
修身の決意を新たにしたという伝説がある。脱藩を志す者は心
しなければならない言葉でしょう。それくらいの心構えなしに
は到底進歩は望めないからです。   
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